死を生きる
今朝、決算の署名押印に見えたクライアントの社長から会議室のホワイトボードに書かれた言葉について質問があった。そのボードには「生きる意味→死を生きる」の文言があり、死を生きるとはどう意味かと問われた。
私が若いころ、父によく言われたことが二つある。一つは「お前は晩年型だから結果が出なくてもクヨクヨするな、何れ結果はついてくる」と。もう一つ「死事を習いて後に、他事を習い候え」と。
人は人生の中でその境遇によって死の意味が異なっていると思っている。独身の頃は全く考えなかったし、子ができた時は一人前になるまで死ねないと思った。子が育つと夫婦の中でのお互いの死について考える。
昔、家の玄関を出るときに「行ってきます。」と声をかけて出かけたが、ひょっとして生きて帰れないかもしれないという覚悟で出かけたものだ。娘たちが一人前になれば、事務所の将来やスタッフのことにクライアントのことなどが気のなってくる。
永遠の継続を誓って、わが事務所を鉄筋コンクリート製にし、快適空間を作ることでその覚悟を示したのだ。
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