やっと秋が
秋分の日からめっきり秋らしい気配が漂い始め、昨夜は長袖が欲しいくらいでした。空も将に秋晴れで抜けるような青さです。この世にコロナの災いなど無きが如くですが、今日の経営会議でもテーマは初期対応の財務支援から資金繰り対策も含めてわがクライアントの課題は経営支援の領域に入ってきたと考えています。これからは将に「継続マス」の領域の出番です。この危機を脱して存続・継続・成長の切っ掛けを掴んで欲しいものです。チャンスは身近に存するものです。意外と!現状把握と問題点の抽出が肝要です。
« 2020年8月 | トップページ | 2020年10月 »
秋分の日からめっきり秋らしい気配が漂い始め、昨夜は長袖が欲しいくらいでした。空も将に秋晴れで抜けるような青さです。この世にコロナの災いなど無きが如くですが、今日の経営会議でもテーマは初期対応の財務支援から資金繰り対策も含めてわがクライアントの課題は経営支援の領域に入ってきたと考えています。これからは将に「継続マス」の領域の出番です。この危機を脱して存続・継続・成長の切っ掛けを掴んで欲しいものです。チャンスは身近に存するものです。意外と!現状把握と問題点の抽出が肝要です。
昨日、鬱の話をした。そこで太陽の光を浴びること、精神の解放が大事と書いたが、早速久しぶりに再開したGYMのトレーニングに行ってきたが、20分のランニングでかいた汗が心地よく気分を開放的にしてくれた。運動の効果は即座に出る。今度はラウンドの番だ。早速今週末のゴルフを考えたいと思っている。苦難を乗り切るコツは精神を開放してあげることだ。
最近、中年の有名人の自殺記事が多く見かけるようになったような気がてしている。私も実は鬱状態だと思い当たることが多い。何となく気が重い、気が晴れない、思い悩むことが多くなった、気が沈む等々どう見たって鬱以外のものではないと思う。きっと病的な程の鬱ではないが鬱状態にあるようだ。人は躁鬱気質と分裂気質に分けられると本で昔読んだことがあるが、私は躁鬱気質だと思っている。躁の状態と鬱の状態が繰り返すことがあると自覚している。そんな状態で謂えば今は鬱状態と謂える。何故と考えたが、一つは仮住まいの家に移って間が無いこと、一々日々の暮らしがちぐはぐでしっくりこなくてストレスが溜まること、嘗ての旧宅での暮らしが懐かしく思い出されるの理由が考えられる。
要は気分を変えて、視点を変えて精神を開放させてやることだと思う。秋の晴れ間にゴルフでも行くとしようか。太陽に肌を晒すのも一つの効用かも知れない。
最近老人臭い記事が多くなったと自覚している。しかし、正直な感情だから致し方ないと思うが、読者は又かと臍を噛む。何度も言って恐縮だが、歳を摂るとあらゆるものが縮んでゆく。お分かりだろうか、それでも輝くとは大変な努力なのだ。段々出来ることが縮んでゆくのだから。これからも正直な感情を率直に語ってゆきたいと思っている。
老人になると自分の姿がどの様に見えるのかとても気になり始めた。私はどの様に他人には見えているのかと。どうもそれは世の中の老人を見る機会が多く成りだしたからそして同年配の気配が気になり始めたこと、自分は他人より若く見せたいという欲望とまあ、色々な葛藤があるようです。人にお若いですねと謂われて理由もなくはしゃいだりすることも時々はあるのがこの年代だ。義理の父を観ていてはっきりしたのは人は生き甲斐を見失ったとき輝きを失うのだと云うこと!
久々の四連休だった。昨日は彼岸だったのでうちと家内のうちの墓に詣でた。90歳に為ってすっかり萎れてしまった義理の父を励ましているうちに帰る時間が遅くなり、ここの処経験のしたことが無い程の渋滞に遭遇し倍の時間を要してしまったのは予想外の出来事だったが、連休の房総半島は日帰りの行楽の恰好な適地でもあった。久々に訪れた食堂ではすっかりメニューも変わっていて肩透かしを食ったし、コロナで世の中徐々に変化しているのを目にした墓参りであった。
最近、専門職関連の講演より前置詞は兎も角、人生の考え方とか人生そのものに関するテーマにした講演が続く。これも齢の所為とも人生を長く生きた証ともとれるが、内心快く思っている。何故ならば、私の生きた人生や人生感が肯定的に受け入れられている証だからだ。人生後半に、自分の人生を受け入れてくれるだけで生きる力になっている。老境を豊かに生きるコツの一つかも知れない。
人生のパートナーと謂えば傍にいる人だろう。いつも傍にいて陰に陽に力になって貰っている存在だろうか。今の貴方にそんな人が居ますかと問われれば、私の場合は居ると答えたい。若かりし頃は色々あったが今は掛け替えのない存在だし必要な人である。そんな思いに駆られるのも長年の経験や体験だ。欠けた時のことを思えば答えはハッキリしてくる。掛け替えのないパートナーの存在は老後の人生の彩を豊かにしてくれる重要な要素である。
週が開けて気配はもう秋の風情である。季節の変化は何時も突然にやってくる。時代の変化も同様に。変化を捉えた時はもう既にその兆しは相当の確信をもって変わっているものだ。
それだけに、変化の兆しを捉えるのは難しい。時代の変化も言うに及ばず、パラダイム・シフトの兆しを求めるのは可成りの感性と先見性の感を磨くしかない。
凡人にはその変化の兆しが見えないのだから!常に変化の兆しに直面していたい !
持ち物を失くすのは忍びない。長年住み慣れた我が家が解体せれて消失するのを見るのは実に忍びないものだ。思い出のいっぱい詰まった我が家が消えるのは寂しいものだが、やがて、建つであろう我が家は期待していいのだろうか。
人生も後半に入ると周りでも消えてゆく人や事物が多くなる。失うものが多くなる寂しさはその年齢にならないと分かってもらえない事ばかりだ。その究極に自分の死にある。
グレートトラバースという番組が好きでよく見ているが、そのなかで登山途中で森林限界を超えましたというメッセージがよく聞かれる。調べた訳では無いのだけれど多分これ以上の高度では樹木が育たない環境と云うのがあってそれを超える程高度を上げたと言うことらしい。
人生で言えば盛りを過ぎたとでもいうことかも知れないが、私の盛りのピークは何時だったのかしら?世に云う成長曲線は第一の成長曲線がピークを打つ前に第二、第三の成長曲線を描くことだというが、これは人間にも当てはまるのだろうか!肉体的、精神的なピークはあるかも知れないが、私の人生のピークはまだまだこれからと思いたいものだ。
先月24日に建て替えの為に仮住まいを初めて約二週間、未だ生活に馴染めずゆったりした気分とは程遠く不慣れな日常が続いています。このところ感じるのは普段の生活がゆったり流れるノンストレスの日常が恋しくてなりません。一年もすれば新居への移転が待っています。漸く慣れた仮住まいからの転居が待っています。何か一つ気の休まる雰囲気が出来たらよいのにと切に願っているところです。
老人が住み慣れた住まいからの移転を好まない理由がよく分かるようになりました。
ここ最近は、職業人としてや人生そのものをテーマにした講演依頼が多くなったように気がしている。齢70にもなれば人生についても僅かながらも多少の蘊蓄位は有るものだ。
最近では教育者向けに、そして、遂には中学生対象の人生と職業についての講演依頼が入ってきた。
ここ最近の大きな変化である。齢70になって、遂に「私も人生について語るようになったのか。」との思いがあるが、決して悪いことではない。
多分、これが年相応の世間の見方なのかも知れない。せいぜい、いい歳を摂りたいものですね!
引っ越した直後に夏休みを取った。その夏休みが明けて今日は久しぶりの出社である。実に一週間である。引っ越しの慌ただしさからの逃避行であるが、実に切実に非日常を過ごしたかったのも手伝ってか実に快適な夏休みとなった。不慣れな日常を脱して恒例の蓼科での休暇が嘗てなく新鮮でフレッシュに感じられたのは日常のストレスからの解放でもあったからだろうか?
9、10号と大型台風が九州地方を窺う状況の中、幸いにも天候を気にせずにゴルフ三昧、実に堪能したのだった。
最近のコメント