虫の気持
今日或る保育園の定期理事会が有って、監事として出席した。15園或る保育園のうちのある保育園の活動履歴の中に園児の保育活動の中で虫の飼育とその死についての感想や園児の行動があった。
我々に日常的に人間以外の視点で虫の気持という局面で地球を考えるという価値観が備わっているかと”はっ”と思った。世の中は自分や人間にとっての視点で語られることが多い。グリーン・プラネットと謂い、虫の気持と謂い,人間以外の視点や若者の視点で地球を考える価値観を是非備えておきたいものだ。
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今日或る保育園の定期理事会が有って、監事として出席した。15園或る保育園のうちのある保育園の活動履歴の中に園児の保育活動の中で虫の飼育とその死についての感想や園児の行動があった。
我々に日常的に人間以外の視点で虫の気持という局面で地球を考えるという価値観が備わっているかと”はっ”と思った。世の中は自分や人間にとっての視点で語られることが多い。グリーン・プラネットと謂い、虫の気持と謂い,人間以外の視点や若者の視点で地球を考える価値観を是非備えておきたいものだ。
ゴールデンウイークは日替わりで雨が降り何時もの安定した五月晴れは限定的で、コロナ明けの予兆を先延ばしにした格好だ。一方でコロナが一服し落ち着きを取り戻しつつある初夏、今度は熱中症対策が急浮上し、今度はマスク剝がしが問題になっている。同質性が問題視される中、今度はどうやって不要不急の際のマスクなしの生活が普通になる中、これをどう実行していくか問題になるのがどうにも日本らしい処である。
他人の動向を気にする気質はどうも日本人の異質性を嫌う気風にあると思われるが、他人と違う意見や服装を良しとしない横並びの感触が全てを物語っている。
この村社会の気風の存在を思うとイノベーションの実現やブレークスルーを期待するほうがおかしいと思いたくもなるというもの!
昨日、クライアントで携帯を最新のものに変えた。最近は携帯も端末の意識が出てきて、20万円の超える値段も受け入れやすくなってきたのはその利便さ故なのだろうか。
今は新しい対応もスマートフォンを中心に展開することが多い。私など家に忘れたりすると地元にいてまるで絶海の孤島に置き去りにされたような孤立感を味わうのは言い過ぎだろうか。
午前、あるクライアントの優良申告法人の表敬の場面に立ち会ってきた。このクライアントは最初に表敬を受けてから5回目に当たり、約10年に亙り継続して表彰を受けている。最初に表敬の打診があった時に当時の社長から受けるべくか、メリットは何かと聞かれたときにこう答えたことを記憶している。
知り合いの経営者が語っていた言葉を其の儘伝えた。「社長が公正で中立的で公私混同をしない姿勢は従業員が一番近くで見ている。従業員に説得力を持つのは正直な納税姿勢だ。」とても説得力のある説明で腑に落ちたのを覚えている。
社長のトップの姿勢が問われるのは社長になって看なければ分からないのだ。
世間一般で謂えば、私はもう引退した老人の部類に入る。殆どの人は職業を持っていない。が私は依然現役で仕事も程ほどにあるし、収入も多少は或る。
従って、意見も一人前に聞いてもらえる。地位も、仕事も収入もない人の意見や見解は相手にされない、してもらえないことが多い。その点、私には仕事やボランティアの仕事が来るのは煩わしいこともあるが一方、嬉しくもあるし遣り甲斐もあることが多い。誠に幸せな老後と謂える。
一にも二にも健康で物事に立ち向かう気力が必須である。ジム通いは当分辞められない。健康年齢の延長が当分の使命である。
QOL(生活の質)ってやつは、実に厄介だ。平凡な日常が続くことが必ずしも豊かでなかったり、激動の人生が必ずしも不幸であったりはしない。
実に人間の幸福感は厄介な代物である。逆に不幸の度合いが事の重大さと比例しないのも厄介である。ささやかでもじわーっと身に染みる幸福感は誰でも経験する処だ。
実に幸福な生き方とは些細な事でも重大な事でもふわーと受け流せるような実に柔軟な感性の事かも知れない。
72歳にして熟す仕事の量は激減したが、取り組む仕事の質は格段にアップしていると思う。誰にでも出来る仕事でないものが特需で来るようになった。
しかも遣り甲斐のある責任の重い仕事が来る。普通なら勇退の歳かもしれないが、遣り甲斐はある。お陰で退屈せずに暮らせるのは有難いことだ。
少しでも人の役に立つような仕事なら大歓迎である。年寄の冷や水にならぬ様に!
1949年12月、私の誕生年だ。当年取って72歳、後期高齢者に後3年。運転免許も更新手続きが変わる節目となる。最近読んだ「80歳の壁」なる本は老後を生きる私に大変なサジェスチョンを呉れた。後期高齢者は「後期幸齢者」。年寄は厄介者ではなく幸せに生きる者。健康に生きることの心構えを分かりやすく教えてくれる優れモノだ。大変参考になった名著である。
昨日、まだ明るい夕方、72歳・72歳と唱えて入浴する心地よさを味わう。よくここまで健康で遣って来られたものだと衝く木菟思う。世は72歳67が健康年齢の平均値だという。後はどれだけ健康でいられるかが私の人生を決めると謂える。
国土の大きさや人口の多さが大国の定義ならロシアは間違いなく大国であるが、国際社会での地位や立ち振る舞いはとても大国とは言えないような事象が多く目立っている。
国際社会での影響力が持てる資源の多さや核兵器の脅威にあるのなら恫喝や脅威が武器のならず者国家と何ら変わらないことになる。この恫喝をどうやり過ごすのか世界の現実の切実な問題である。
人にはリーダーの資質の人と参謀が似合う人と謂うのがある。立場を間違えると先の政治家の轍を踏む。でも事態はそのことと無縁に展開するものだ。その場合、どうするか。
人生を舞台に上がる俳優が演じる主人公だとしたら、その趣旨に沿ってそのように演じればよい。次第に演じる本人が本気で行動する様になる。夢か現か判然としなくなる現象は歴史が教える。
所詮、人生は歴史と謂う舞台で演じる人生劇場かも知れないのだ。
6月中旬孫たちが一時里帰りすることになった。二週間ほどの滞在だが、彼らからすれば二週間でも短いのだろう、あれもこれもと欲張っていたらあっという間の滞在期間だろう。
2020年7月9日に離日してから二年余り、孫たちは大分様子が変わったろう。その日が来るのが待ち遠しい。学校の体験入学や幼稚園の手配もやってくる。
忙しく慌ただしい日々がやってくる。日本滞在中のベースは我が家である。
家を新築した時の希望は広いデッキで孫たちと戯れる事と謂うプランを設計時に盛り込んだ。ただし、それほど広い面積は叶わなかったが、それでも8畳ほども確保、その上、玄関も広さに拘ったので出入りの時はゆとりを感じられて快適である。
今週末は、待望のデッキ家具が届く、仏壇が届けば当初の構想は全て終了だ。夏に向けて準備は整ったということになる。高台で視界の開けた空間は流石に優雅、老後の住処に相応しい快適さだ。無駄にせぬよう人生を楽しみたいものだ。
上記の本を購入した。日経の広告で目を引いたので興味が有って買ったのだが、人生100歳時代からすれば遥か彼方の事だが、老いを感じてからのその歳月は決して長くはない。
果てしない老いとの戦いが待っている。出来なくなったことより出来ることを考え、新たに出来るようになった事に関心を寄せ、我慢せず好きなことをするストレスフリーな生き方の方が幸せだという。
標準的な生き方よりは自分に合った生き方を重視したほうが人生より豊かで幸せだ、ごく当たり前のことが重要だと思い知った。
何も、何時も自分の人生を絶えず人と比較して生きることの虚しさを改めて自覚する。孤立すると兎角、人と比べたがるものだとつくづく思い知った次第。
地球は誰のものだろうか? 人類は地球の所有者として一体、誰の承認を得たのだろうか。その優越的立場を誰の承認を得ることも無く勝手に蹂躙して良い筈がない。
協調と謂い共生と謂いつつ身勝手な方法で使っている我々の傲慢さは傍から見れば噴飯ものだろう!
里山と謂い、天然資源の永続的維持を前提とした資源保護志向の農漁業手法や考え方を含め、いま日本的価値感の存在が試されていると思うがどうだろうか。
今、八千代でユネスコ八千代支部の設立を模索する動きがある。ユネスコは英語表記ではUNITED NATIONS EDUCATHIONAL、SCIENTIFIC、CULTURAL ORGANIZATION と謂うつまり、国際教育、科学、文化機関が直訳である。
今よく耳にするSDGsや世界遺産の認定や保護に関する国際機関と謂うほうが理解が速い。地球温暖化防止に関する世界協調の最前線と謂う訳だ。
この取り組みで重要なのは誰がその責任と義務を負うのかと謂うことと解決手段としてどういう取り組みを誰がするのかと謂う事だが、短期的には今の現役世代が取り組むことと中期的には次世代の教育があると思う。
しかし、人によっては地球温暖化の臨界点をすでに超えてしまったという見解も存在する。中期的目標は短期的視点で語られるべき時期なのかも知れないのだ。
「SDGs」を人類のアヘンにしないための取り組みが求められている時期かもしれないのだ。
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